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☆ 咲きたい花たちの園

「こんにちは」
 何時季の挨拶に如雨露を持った少女が応えた。
「こんにちは、僕は何時季。あなたは?」
「紗花(さやか)と言います」
「紗花さんは食べ物に困って……ないかな。ここには水も植物も十分にあるみたいだね」
 紗花の身体は栄養不足には見えない。

「ええ、でも、何時季さんみたいに美味しそうな植物はなかなか居ません。地上から来られたのですか?」
「うん。此処には紗花さんしか居ないの?」
「いいえ。この花たちが居ます」
 紗花は庭園の花々を示す。如雨露を傾け、水やりを始めた。

「こんにちは、私は晶華。私たちは何時季に救われたの。彼の果汁を飲ませてもらって生きているわ」
「そうですか」
「地上には生物はとても少なくなって、なかなか見つからなくなってるわ。植物も動物も人間も居なくなった。私たちは生き残ってる人を探して来たの」
「そうですか」
「紗花さんはずっと此処で花の世話をしてたの? 他に誰か、何か生き残ってたりする? 知らない?」
「この花たちが生き残っています」

「地上はほとんど砂漠になってるみたいよ。この花たちも、砂漠になった地上じゃ生きられないよね。紗花さんはこの花たちが好きなのね。そうよね、綺麗ね」
 姫李佳はどこか不安だ。此処にも水は豊富にあるようだ。水を生成する自分の役割が不要だ。
 でも考えてみれば、水が無い場所では誰も居ないだろう。誰か居るなら水もあるだろう。当然だ、自分たちは生きている誰かを探しているのだ。

「紗花さん、寂しくなかった? 私は鎖につながれて、ずっとお腹が空いてた。だから、寂しいとか考える余裕も無かったわ。何時季に助けられて、美味しい果汁を飲ませてもらって、お腹いっぱいになって、何時季もみんなも居て、寂しさはやっぱり無かったわ。紗花さんはお腹が空いてるようには見えないわ。でも、寂しくなかった?」

「寂しくなくちゃいけないんですか?」
 紗花が微笑む。彼女の水やりは続いている。不思議な如雨露だ、水が尽きない。
 姫李佳が水を生成できるように、あの如雨露も水が尽きないのかもしれない。失われたテクノロジーだが、姫李佳だけとは限らない。あの如雨露と太陽の光があれば、この庭園に緑は尽きないのかもしれない。

「私はこの花たちと一緒でした。寂しいと思いますか?」
「解らない。でも、紗花さんは寂しそうにも見えます。この空中庭園で、ずっと花たちの世話をしてたのですか? 誰も来なかった?」
 晴香が訊く。晴香のように空を飛べなければ、此処には来られないだろうけど。
「ええ、ずっと、誰も来ませんでした」
「あの戦争で、どうやって此処は残ったのですか? こんな戦闘用とは思えない空中建造物が、何故残れたのですか? 此処に居るのは紗花さんだけなのですか?」

「私は花を育てるために造られた生体ロボットなんです。この空中庭園が残った理由は知りません。たぶん、もともと人が居なかったから、標的にされなかったのでしょう。運良く戦闘に巻き込まれたりもしないで、消えなかったのでしょう」
「そうですか。紗花さんを造った人たちは、此処には居ないのですね」
「居ますよ」
「何処に?」
 紗花は微笑んで花園を示す。

「花? そうか、花が意識を持って……人間だったのか、それとも進化したのか……いや、植物の意識のこと、知られてなかっただけなのかも。この花たちが紗花さんを造ったの?」
「ええ。何時季さん、あなたも植物ですよね。解ります。歓迎しますよ。ここは雲の上にも、下にも行けます。太陽も雨も望みのままですよ」

「うん、ここは植物のためには良い場所だね。紗花さんも居るし。でも、僕は地上で……」
 何時季は口ごもる。地上で緑を増やす、そう言いかけた。でも、それはしないつもりだったはずだ。樹になれば緑を増やせるけど、それはしたくないと思っている。
「僕は、地上で緑を増やす方法を探すよ」

「何時季さんならできるでしょう。樹に、森になれるはず。あなたなら、砂漠に負けない樹になれるでしょう。何時季さんのように強い植物は初めて見ました」
「うん、でも、それはしたくない。樹になってしまうと、この姿に戻れないから」
「その男の子の姿が必要なんですね。解ります。花たちも私を、このような女の子の姿に造りましたから」

「紗花さんは花たちと話せるの? 言葉じゃなくても良い。分かり合えるの?」
「半分ですね。こうして話すように分かり合えます。でも、話してくれないこともあるかもしれません。いえ、たぶんあるでしょう」
「此処の花たちには、何か夢はある? やりたいことはあるの?」
「ええ。花は咲きたいと。だから私を造ってくれました」

「咲きたい? 花が、咲きたいって……当然だけど……咲いてどうするの? 何を誘うの?」
 帆夏が訊く。美しい金髪がざわめく。帆夏は美しい。その姿は自在に変えられるけど、帆夏の通常の姿は美しい。当然だ、美しくもなれる、それならばそうする。

「花は咲くだけですよ。誰も観ていなくても、咲きます。でも、皆さん、来てくれましたね」
 少し強い風が吹き抜け、花びらが舞った。桜だ。いつの間にか満開になっていた。薔薇の花びらも舞う。どちらも多くの人間たちに愛でられた、美しい花だ。

「皆さんが来てくれたから、みんな咲こうとしてますね。やっぱり、観て欲しかったんですね」
 風が吹く。大量の花びらが舞う。視界が遮られる。何時季と紗花の姿が見えなくなる。
「何時季!」
 空流の消滅光が迸り、花びらが消える。
 何時季と紗花の姿も消えていた。

☆ 空中庭園

 砂花菜の娘たちは、いくつかの陸地を発見していた。昔の地図データと異なっている部分も多い。あの戦争で地形も変わった。
「人の気配は無かったのよね?」
「ええ、でも、海中以外のことは良く解らないわ。陸上は遠くまで行けなかったから。だいたいは乾いた砂漠だったから、行く必要も無かったかも」
 晶華が海の少女たちの記憶を探り、データを検討する。海の少女たちが忘れていることも探れる。
「面白そうなモノがあるわね。空に島が浮いてるわ」
「ああ、それは覚えてるわ。行けなかったけど」
「懐かしいな。空中建造物、まだあったのね。晴香が居るから行けるわね」

「もしかしたら、その空中建造物にも誰か閉じ込められてるかもね。降りられなくなってるかも。この海底基地から出られなかった私みたいに」
「砂花菜さんはそうだったのよね。でも、今は出られるわ。一緒に来る?」
「いいえ。私は多真と娘たちと一緒に居るわ。多真と言う愛する旦那様が、みんな養ってくれるわ」
 砂花菜が多真にキスする。
「旦那様って、砂花菜、僕で良いの?」
「逃がさないわよ。でも、多真、あなたは私たちで良いの? あなたなら他の場所にも行けるでしょう。海も広いし、地上にも行けるでしょう。私たちで良いの?」
「うん、砂花菜たちが良い。僕を止めてくれた。愛をくれた。ありがとう。何処かに行くとしても、一緒にだ。でも、まだここで良いよ」

「何時季、私たちはどうする?」
「その空中建造物に行ってみよう。隔離された場所なら、誰か居るかも」
「そうね、行ってみましょう」
 練佳が空間転移ゲートを開く。この海底基地では電力は十分にある。
「じゃあ、行ってきます。またね!」
「ええ、行ってらっしゃい。何時季、ありがとう!」
「また来てね!」
 砂花菜、リナたち、多真が見送る。

「探してたモノ、生き残ってた誰か、見つかったわね」
「うん」
「でも、また他の場所へ行くのね」
「うん」
「そうよね。何処まで行くのかな」
「何処までだろうな。解らないよ。知らない場所に行くのだもの」
「そうね」

 ゲートを抜けた先は、空だった。空中建造物の上空に出た。晴香が全員を浮かび上がらせている。重力操作能力は晴香の周囲数メートルの距離まで働く。
「何だかエッチしたくなるな。晴香に浮かばせてもらってると」
「いつもそのためにしてますからね。何時季さん、晴香は便利でしょう? 重くもなく、体位も自在ですからね。たくさんの恋人に応えるためにも便利ですよね」
「あれ? 晴香、怒ってる?」
「いいえー 私の能力が役立つのは嬉しいですよ。何時季さんとのエッチはみんなに必要な、大事なことですから。でも、空中エッチは私のおかげだってこと忘れないでくださいね。時々、忘れてるみたいだけど」
「ごめんね」
 何時季が晴香を抱きしめようと手を伸ばす。晴香は彼をすぐには近付けない。空中の位置関係は彼女が支配している。でも、何時季が手招きすると近付いてくる。何時季が晴香の頭を撫でる。
「晴香も嫉妬するんだね。そうだよね、当然だ。大人しい晴香だから甘えちゃってたな。ごめんね」
 晴香は嬉しそうだが、拗ねて見せる。
「嫉妬とか、そういうのじゃないです。何時季さんはみんなに必要ですし、誘惑するのは自由だし……でも、誘惑とか得意じゃない娘のことも考えてほしいです」

「えっと、何時季、晴香、このまま空中でエッチする? とりあえず降りない?」
「あ、そうですね」
 眼下に巨大な長方形が見えている。自然には見かけない形、人工物だろう。空中建造物を上から観ている。
「あ、緑が見える! 植物がある」
「空中庭園? 凄いわね」
 花咲く庭園のような場所に降りた。
「水はどうしてるのかな? 光は十分だろうけど」
「雨が降るのかしら。少しの雨を効果的に使えるのかもね。それに、この植物たちが水を保つわ。地上は緑が無くなったから砂漠化したのかもね」
「そうかも。そうだ、海は残ってたんだもの、雨は降った、たぶん。でも森が無くなってたから、砂漠になっちゃったのか」
 何時季は太陽を見上げる。心地良い光。でも、植物が無い地上は乾くだろう。
「ここから種を運ぶ鳥も居ないんだろうな。葉や種が風で飛んでも、砂漠になった地上じゃ育たないだろう。そうか、だから僕なんだ。僕はいきなり森を造れる。森になれる。砂漠に緑を増やせるだろう。普通じゃない、強力な光合成能力はそのためか」

「そうね、でも、それはあなたが決めることよ。何時季、あなたは森にならずに、そのままで居ることも選べるのよ。あなたを造った何かに愛されてたのよ、たぶん」
「愛されてた? 何か変だよ。水を探すためだとしても、人間型にする理由は無い。森になることをためらわせる、迷わせる理由は無いよ」
「人間型にした理由は、人間だったからか、人間になりたかったからでしょう。たぶん、あなたが望んだのよ。そして、あなたは光合成できる男の子になった。そうなれた。愛されてたのよ」

「そうか、そうだね。それは納得できる」
「リナたち、砂花菜さんの娘たちもそうだった。愛されるためだけじゃない、愛されてたから、あんなに綺麗で優しい女の子たちとして産まれたんだ」

「僕も今、晶華たちに愛されて、護られてる。植物がやりそうなことだ。綺麗な花、美味しい果実は護られる。大事にされる」
「でも花も実も、新しい命につなげるためのモノだ。僕にもそれができる。新しい実を結ぶ森になれる。いつかそうしなきゃならない気がする。でも」

「花はいつか萎むわ。でも、萎むことを望む花は居ないわ。何時季はそのままで、森になりたくなくて良いのよ」
「そうだね、僕はまだ、このままで居られる。ありがとう」

 花園の奥には、やはり緑に覆われた建物が見える。入口もありそうだ。空中建造物にはそれなりの厚みがあったから、ここから下に降りられるのかもしれない。
「誰かの気配はある? 晶華、晴香、誰か居る?」
「そうね、眠っているような意識の気配を感じるけど、それなりにシールドされてるわ。防御機構は残ってるみたいね」
「質量探査では、動くモノはありませんね。いや、あります。動き始めたみたいです。私たちが来たこと、解るみたいですね」

 蔦に被われた建物から、一人の少女が現れた。手に如雨露(じょうろ)を持っている。
「こんにちは」
 何時季が呼びかけた。

☆ 初めての空の下で

 屋上。
 ここは、あの手紙を書いた詞露と言う少年が、初めて空を観た場所らしい。

「懐かしい、かな。覚えてないけど」
 遙希も、その時、一緒に居たらしい。

「覚えてない。当たり前だよ。初めて来た。懐かしくなんかない。初めての場所だ」

「忘れただけよ」
「初めてだ」
「そうね。そうね、そうだわ」

「あんな手紙、ただの、創った物語だ。誰かが、僕たちを惑わせようとして、創っただけさ。初めて来た」
「そうだね」

 綺麗な空と海。
 綺麗な女の子。
 忘れるわけがない。

「……遙愛」
「想い出した?」
 想い出していない。彼女だって覚えていないだろう。
 でも、あの手紙を書いた少年ならこう応えるだろう。

「忘れるわけ無いよ。遙愛は僕の恋人だもん」
「そうね、ごめんね、記憶を消すなんて、勝手なことして。でも、大丈夫だったみたいね」

「うん、大丈夫。何もなかった。悲しいことなんて無かった」
 本当にそうなのだ。覚えていないのだから。
 それに、今、この綺麗な空の下に、一緒に居る。
 いったい、何が悲しいのだろう?

 僕が今、涙を流しているのは、あの手紙に書かれていた物語のせいだ。
 物語に泣かされるなんて、珍しいことじゃない。
 僕は、ちょっと涙もろいのだ。彼女も、そうなのだろう。

 僕たちは、あの手紙を時々読み返して泣くだろう。
 でも、あれは僕たちのことじゃない。
 もういない恋人たちのお話だ。

 僕たちの物語は、ここから始める。

 いつもそうなのだ。そうなのだろう。
 これまでも、そうだったのかもしれない。

 あの手紙を書いた彼も、そうだったのかもしれない。
 ただ知らされなかっただけで、消された記憶があったのかもしれない。

 彼の境遇を考えれば、ありそうなことだ。目隠しして拘束されていた、その前のことは書かれていなかった。

 でも、今度は、手紙をもらった。
 彼は、手紙を書いてくれた。

 僕が彼だとしたら。
 ちょっと誇らしい。

 ありがとう、詞露。
 遙愛の、遙希のこと、教えてくれて。
 大切にする。

「遙愛、いや、遙希」
「何?」

「僕の恋人になってほしい」
「……うん。ありがとう。初めて聴いたのよね、その言葉」
「うん、初めて言った。遙愛は詞露君の恋人。遙希には、僕の、愛凰の恋人になってほしい」

「僕は、あの手紙を書いた詞露君のように、遙希を幸せにできるか、解らないけど。でも、大切にする」

「幸せになれるわ。私、愛凰のこと、解るのよ。愛凰が幸せになれば良いの。そうすれば、遙希も幸せになれる」

「ありがとう……遙希、彼は、彼女は、あの二人は……詞露と遙愛は、幸せになれたのかな」

「なれるわ。なれるわよ。ねえ、詞露、幸せでしょ?」
「うん。幸せだよ、遙愛。解るよね」

 彼は僕なのだから、幸せになれる。なれないなんてことはない。幸せにする。
 遙愛も、遙希も。

 ありがとう、詞露。
 僕はキミを幸せにしなくちゃ。

 ありがとう、詞露。
 キミのこと、教えてくれて。
 大切にする。

 ありがとう、愛凰。
 思い出しちゃってごめん。もう、キミは居ないのかもしれない。
 でも、いつか、何処かで……
 いや、いつでも会える。

「ねえ、遙愛、これからも、遙希って呼んだ方が良い?」
「どっちでも良いわ。詞露の好きにして。私は詞露の考えること、解るから。詞露は私の考えること、解らないのよね。良かった」

「良かったの?」
「だって、恥ずかしいもの。私が詞露のこと、どれだけ求めてるか知られたら。治ったって、変わらないわ。詞露が居なくなったら、困るわ。そのこと、知られたら、困るわ」

「知ってるつもりだけど……知らないんだろうな。狡いよ、遙愛」

「そうだね、愛凰。詞露によろしくね。怒って良いって、伝えておいて」
「狡いなあ」

 思い出した。たぶん……
 遙愛もそうだろう。僕の心が解る遙愛なら、僕が思い出せば同じだろう。

 記憶が消えるなんて無い。
 忘れても、消えるわけじゃない。
 愛凰のことは、忘れていない。
 思い出せない、心細い愛凰。僕と同じ。僕のことだ。

「戻ろう、遙希」
「うん。愛凰、行きましょ。良い名前ね。気に入ってるでしょ?」
「だって、詞露にもらったんだもの」

「そうね。ちょっとややこしいけど、付き合うわよ。私のせいだもんね。変なことして、ごめんね」
「うん。大丈夫。遙希のせいじゃない」

 お嬢様たちの所へ戻ろう。
 僕の恋人は、遙愛だけじゃない。

 扉を抜ける。
 切り取られた空。
 広い場所から、戻る。

 そう、戻るんだ。
 みんなと会った場所へ。

 家に帰るようなものだ。
 そこを捨てる必要は無い。
 そこから始まった場所、大切にしよう。

閉ざされる自由と壊す自由
青々と透明に吹き上がる熱情

 

終曲~ありがとうございました

この物語をKindle電子書籍化しています。
書き下ろし後日譚も収録しています。
【kindle電子書籍版】ミルク売りの少年は世界を夢見る

☆ 冷たい風、寒くはない

「ここは……館から出てしまうんじゃないんですか? 良いの?」
「詞露、まだそんなこと気にするの? ここはまだ館の一部よ。まあ、出てしまうとも言えるけど」
 お嬢様たちに連れられて、階段を登る。初めての扉。
 屋上? その言葉は知っているけど。

「いきなり屋上ですか? 窓でも開けてあげれば良いのに」
 遙愛は来たことがあるのだろうか。
「良い天気よ。私たちが詞露と一緒に行きたいのよ。詞露のためばかりじゃないわ」

「さあ、詞露、ここがあなたが居る場所よ」
 扉の先は明るい。目が慣れない。何があるのだろう。

 空。これが、空なのか。
 遠く輝く青。太陽が眩しい。
 本当に眩しいんだ、これが太陽……

 屋上は広い。これまで入ったことのある、一番広い部屋より広い。
 でも狭いことが解る。
 壁が無い、その先が見える。

 そこは本当に広かった。
 空と海。

 この館は小さな島の丘の上に建っている。それは聞いていた。観たことは無かったけど。

「広い……広いね」
 手を伸ばしてみる。何にも触れない。
 いや、風がある。光も感じる。
 でも、ぶつからない。広い。

 ふと心細くなる。何も捕まえられない。捕まえてくれない。
 こんな広い世界で、離れてしまったら……

「どうしたの? 詞露?」
 遙愛が僕の前に来る。手を伸ばせば届くだろう。
「何でもない。ありがとう、遙愛」
「何でもないのに、ありがとうなの? ふふっ……」
 遙愛は解っている。僕の感謝の理由が。
 僕は言わない。遙愛に言う必要は無いし、ちょっと恥ずかしい。

 僕はゆっくりと腕を伸ばし、大きく挙げる。
 大きく歩いてみる。
 こんなに自由に動けるなんて。なんて、広いんだろう。

 だんだん動きが速くなる。身体がちょっともどかしい。もっと動きたいのに、ついてこない感じ。

 僕のスカートが揺れる。いつものメイド服だ。
 脱いでしまいたい気もするけど……止めておこう。
 みんな我慢してくれてる。

「ふぅーっ……」
 疲れた。座り込み、寝転ぶ。

「詞露、休むなら戻りなさい。風が少し強いわ」
 紅華様が傍にしゃがみこむ。スカートの中が見える。

 確かに、風は少し冷たいかもしれない。
「冷たいのも気持ち良いけど……」
「そうかもね。これまで、ずっと包まれてたものね。暑かった?」
「ううん、暖かかった。うん、戻ろう。また来ても良いんですよね?」
「もちろんよ」

 遙愛に、紅華様に入れたい。でも、寒いかもしれないから。戻ろう。

 立ち上がって、遠くの水平線を観た。
 あの向こうに何かあるらしい。
 地図を観たことはある。

「遠い、のかな?」
「水平線までは約十五キロメートル。ここは高いから、そのくらいらしいわ。遠いと言う距離でもないみたい。でも、広いわよね。特に、詞露には」
 遙愛のその知識は、いつか僕に教えてくれるためだったのだろうか?

「詞露に見せるのが怖かったわ。ごめんね」
 緋映様がこっちを見ない。怒ってくれる時はまっすぐ見るのだけど。
「ありがとう、緋映。大丈夫、僕はキミの恋人だよ」
 緋映様の手を取る。抱き寄せてキスする。
 怒ったような表情を溶かす。

「緋映姉様だけじゃないですから」
「詞露、一緒に連れてってね。行くのでしょう? あの向こうへ」
 美赤様と紅華様もくっついてきた。

「はい、お嬢様、詞露、その先はお部屋に戻ってからね」
 遙愛に押されて扉の中に戻る。
 我慢できなくなる前に戻れた。
 心の中で、ありがとうと言った。遙愛が笑う。

 最後に振り返って、少し切り取られた空を観た。